うどんたべたい

うどんをたべながらげんごがくをするぱんだのぶろぐ

2.17

昨日(ここの時間で10月12日)はジェットコースターみたいな日でした。

朝4時、目を覚まして携帯でメールチェックするとがくしんからメールが来ていました。結果が出てるよ、というやつ。
電気をつけないまま配偶者に連絡してパソコンをひらいて結果を見ると ふさいようしー 。すべてがぼろぼろの評価でした。タイトルの2.17は研究者としてのししつの点数。5点満点。一番いい点数で、これ。

絶望でした。5年前のがくしんもCだったけど、5年経って何も変わっていないのか、やっぱり私は向いていないのか、と。

今なら思えるんですけどあの申請書から資質をどう見るんですかね。なんとうか名詞の指示対象がでかい。でも点数化されて、お前はこんなもんだよ、といわれるとめちゃくちゃ落ち込みました。いや落ち込むところが向いてないといわれたらそれまでだけど。

落ち込んだので大学にもいきたくなかったけれど、幸か不幸か火曜日に予定されてたミーティングがリスケジュールされていたのでいかねばならず、行って時間までずっとぼーっとしていました。アドバイザではないこみてぃーの先生とのはくろんのミーティングだったのでもともと緊張していたんですが、力が抜けすぎて緊張はなくなり、まあ普通にすませたんですけれど、そこで いいじゃん! といわれたので不思議に少し元気になりました。ここで、自分を落とすのも上げるのも、自分の好きな研究なんだなあと思ったりしました。

終わった後すぐ帰ろうかな、とまで思っていましたがコロキアムのトークも聞きました。でも あれ? ということがあっても今の自信のなさだと あれ?とおもったわたしがおかしい? となって聞けませんでした。まあこれはいつでもそうなんですけれど。自信がないと、こういう一撃で瀕死になるんですよ。ほら、私の今までのあれこれはやっぱり運だったのよって。

金曜だしもう酒を飲んで数日だらだらして切り替えるぞ と思って帰って配偶者とFacetimeで酒を飲みながらしゃべっていると、一通のメール。ここにはかけなかったんですが7月に面接を受けた後内定をもらっていた大学からのメールで、評議会で採用が正式決定になったというメールでした。ずっと連絡がなくてもしかして評議会でだめっていわれてキャンセルされたのでは、でも怖くて問い合わせなんてできないっていう日々をここずっと過ごしていたのです。このタイミングで送ってくるなんて、なんということでしょう。ドラマチックすぎませんか。

しかもそのメールにはもう研究室も確保してあることがかいてありました。ついたら椅子も机も本棚もコンピュータも初動経費というやつで買ってもらえるらしいです。好きなのを選んでいいらしいです。え、なにそれ、ってかんじです。学会費も研究費から出せますから4月になったら〜とか書いてある。でも何より、「もうあなたの場所は用意してありますよ」という感じでメールが来たのが嬉しかった。

しかしそれでも2.17、ずーんときます。そんなの雇用していいの、って私が逆に聞きたくなります。
でも私がやるべきなのはそのくらいの資質しかないだろ、という評価をしてきた人をどうにか見返せるように経験を積むことなんだろうな、とおもいます。

というわけで、正式に3月までに卒業して、4月から日本で働くことに決まりました。もちろんはくろんのプロセスや4月からの新しい生活に不安はたくさんありますが、とりあえず生きていく道が当座の間は確保されたようなので、よかったです。がんばります。

ちなみに新天地は関東ではないし、親戚も友達も身寄りもない場所です。でも、美味しいうどん屋さんがあるのでとてもたのしみです。面接前日に行って、また食べに来れたらいいなと思ったので実現できそうで本当に嬉しい!

燃えていたのは私かもしれない

院生が某大学のキャンパスで焼身自殺をしたということが大きな話題になって、私は「彼は私だったかもしれない」という側の人間でした。それをめぐるついったのタイムラインでの色々なやり取りを見るだけでこの週末はなんだか疲弊してしまいました。

死ぬことはないのに という言葉は、とても無責任だと私は思います。特についったのようななんでも吐けるようなところに、死んだ人のことも知らないで言う言葉じゃないと思います。その一言を言う以外に当人に何かが出来たわけでもないでしょう。死ぬのだって、きっと悩みに悩んで選んだ結果で、特に完全な部外者がとやかく言えることではないと思います。

今ここまで生きている中で、いくつか違う人生を送ることがあったかもしれない分岐点があると思うんですが、その中のどれか一つ違うところを選んでいたら彼は私だったかもしれないし、これから先にそういうルートに行くことがないとも言えません。私は留学したい理由を聞かれたときに そうじゃなければ研究が続けられないと思うからです(金銭的な意味で) と答えました。私はまだ恵まれていたほうだとも思います。実家から東京の大学に通える距離でしたから。某振興会のとくべつけんきゅういんの結果がふさいようCだかなんだかとりあえず一番下だったんですが、その結果を奨学金の面接2つの前にもらったときは、 ああ、もう駄目なんだな と思ったものです。もしも博士課程の学費が見繕えなければ、とりあえず博士課程には進むという体にして、休学して、職を探そうと思ってはいましたが、そうした未来が目の前に見えたときには当時バイトしていたコンピュータ室でこっそり泣いたのを覚えています。

まあそれからミラクルがたくさんおこって、今こうしてアメリカにいるわけです。でも私は優秀だから来れたんじゃない、たまたま奨学金という宝くじを当てたから来られたのだと、最終年度の今もずっと思っています。沢山の人が「努力家だね」というようなことを言ってくるけれど、私としては全然そんなことはないし、人より頑張らないと人並みになれない、とおもっているだけです。運も実力の内、という言葉もありますけれど、そうだったとしてその実力がこれからもどうにかなるのかはわかりません。そうしたらまずは、今できることで可能性を広げることをやっていくしかないわけです。

こういうところで自己責任のような単語を出されるとつらくなりますね。そりゃそうだけどそんなこといったら誰の人生もそうだと思うし、どういう選択肢をとっても最低限の文化的生活を送れるようになればいいなと思うのが、筋じゃないですか。私はそういうところにガツンと貢献できる何かができるようにはならないと思いますが、少なくとも周りの人がそういうふうにできる手助けはしたいと思っています。

はあ。という今はくろんを書いていますが、つらいですね。今までやってきたことをまとめるだけでも、なんだかつらい。本を書くようなものとはよくいいますが、しゅうろんの短さのものを書いていてあんなにヒィヒィ言っていたのはなんだったのかという気持ちにもなりました。つらさの対策、どうしたらいいのか自分でもわかりません。とりあえず書いて書いて書くだけですかね…。。

あとよくわからないんですが最後のクオーターにもう一つ講師として授業をすることになりました。TAする予定だった授業がどうやらキャンセルになったらしくその都合でなんですが、最終クオーターが死ぬほど忙しくなりそうです。つらい。でも、やれる?と打診をもらえたことと、ここでにほんごがくのような授業をできることはとても嬉しいので、最後までやりきって当たって砕けてから日本に帰りたいと思っています。精一杯緑を輝かせて散ります。

すごくなれると思っていた

9月になりました。ここからアメリカ生活の終わりのカウントダウンかな、とおもうとしんみりします。


私の学部・修士でいっていた大学・大学院からはそれなりの数の先輩がアメリカに行っていました。大学にラッキーで入れた私から見たら、とってもキラキラして見えた先輩たち。ある研究会で発表する人たちはみんなアメリカ帰りか、外国の人。アメリカに留学したら、そんなキラキラした感じになれるのかなあと思っていました。

私のアメリカ生活もあと半年。私は全然キラキラしたという自覚はありません。私はまぐれで奨学金を取れて、まぐれで今の場所に呼ばれて、まぐれで今博論を書けば終わり、という状態になっていて、まぐれで次の行き先が決まりそうになっている。みんな私のことを hard workingなんていうけれど、それは私のもともとがバカだから、何倍もやらないとついていけないからだし、怠惰なところもたくさんあるのにただ気づかれないだけ。次の行き先が決まりそうなのも、私がたまたま女という性別だからだろうと、そう考えている。

多分あと半年で劇的に変わるということはないと思うと、私は5年間私のままだったということになるとおもう。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。アメリカに行っても、(私から見て)キラキラした先輩たちみたいにはなれなかった。

それでも、それがアメリカ生活が無駄だったということにはならなくて、私はもし自分に出来ることがあるなら、いわゆる普通の家出身の純ジャパでも、留学して頑張れるということを他の人にも伝えていきたい。私がダメでもともとでやってみてうまくいった経験を、やってみても無駄じゃないかもしれない、といって若い人たちに伝えたい。

でもどうだろう、次の行き場は研究には決して向いているところではない。専門の科目は教えられない。私はそこが自分の最後の場所ではないと思っているけれど、実際問題として次の行き場にいけるくらいの経験を積めるだろうか。

でも何より大切なのは借りたお金を返して、自分の力で生きていくこと。そうじゃなければ本当はもう少しあとに働き始めたかった。ここで、少しでも実家が太かったり、借りたお金のことなど心配しなくていい人達のことを僻む気持ちが出てきてしまう。でも、私はそういうところに産まれなかったのだから、やれることをやって地道に生きていくしかない。

義妹にも子供が産まれた。幸い私が次に行きそうなところは、女性への手当が厚いようだ。子供も作りやすいかもしれない。でも、私は自分の子供には自分がしたような思いを絶対させたくないという気持ちから、子供は作りたくないと思っている。すでに義姉に子供が産まれた時点で自分の居場所がないというふうに感じていたけれど、そんなのを理由にして産まれる子供もかわいそうである。昨今話題にあがる生産性という言葉は私の胸にも重くのしかかっているのは事実だけれど、そんなものを理由にして産むのも失礼である気がする。とりあえず、自分の立ち位置として寄付でもなんででも、自分のような思いをする人が一人でも減るような働きかけができればいい、と最近は考えていて、じゃっその奨学金をちゃんと返し切るのもそのうちの一つ。働いて、若い人たちが次に使うためのお金を、せっせと返していく。


ダラダラ書いたけれど、昼からワインを飲んだ酔っぱらいのたわごとです。ごきげんよう

夏期講座

今日が夏期講座最後の授業でした。夏期講座というかサマーセッションということで、普通10週間かけてやることを1ヶ月でやっちゃうという乱暴な講座です。月曜日と水曜日、1日の授業時間は3時間半。内容は専門のせまんてぃくす。いろいろな意味で緊張しっぱなしの1ヶ月でした。

夏が特殊なのは、時間編成だけでなくて仕事やら何やら抱える学生がいるということ。仕事があるから早く抜けたり、授業に来なかったり。授業のスライドは授業後にアップロードしたし、授業に出られずについてこられないのは自己責任だからその分はしっかり質問したりするように、といったものの、結局最後までぐだぐだにする学生もいたりとか。なるべく助けられるところは助けようと色々と頑張ったつもりではいました。

今日は最後の日だったので、軽くおさらいをして、みんないっぱい色々やったけど、でもまだまだ説明できないことばについてのあれこれがあるよ、とプレビューをして、早めに終わらせました。日本に帰ってやる仕事というと、まあ英語の先生で、もしかしたら専門のこういう授業をもつのは最後かもしれない、そうおもって最後に自分がこういう授業を教えることになったら入れたかった冗談も入れました。みんなわかってくれて笑ってくれてよかった。

この大学の学生達って優しいからよくやってくれることなんですけど、「じゃあこれでおしまい!質問はいつでもメールしてきてね」と終わらせたら拍手してくれました。なんというかこの授業の拍手はすごく私にとって特別でしたね。帰りのバスで改めていろいろ考えて、じーんとしてしまいました。

まず人が足りなかったのだろうし、さらに夏期講座(人数が少ない)とはいえ、私に講師としてこの大学のりんぐいすてぃくすの授業を任せてくれたということがまず驚きだったし、なんというか8年前に留学してはじめて学んだものを、今年こうして英語で学生に教えているということが本当になんでこんなことがおこったんだろう、という感じで今あらためて信じられない状態という変な感じです。同期のほうが適任ではあったはずだから、結局試験を通ったのがたまたまはやかったから頼まれたというだけなのだけれども、それでも一応わたしで大丈夫と思ってくれたからこそ頼んできたはずで、それが有り難いよりも申し訳なくて申し訳なくて。

指導教官(一応の夏期講座のスーパーバイザー)は 心配すんなーどーんとやれー! というかんじだったんですが、私にはプレッシャーでプレッシャーでしょうがなかったんだな、と終わってみてやっと自覚できました。きっとそれがこの1ヶ月、時差ボケを脱したあとも導入剤無しではなかなか眠れなかった理由の一つなのだろうな、とも(まあ夢で割当関数の話とかしてたくらいなので)

授業評価がどう出てくるかわからないけれど、でもこの経験が出来てよかった。ここで本当は「がんばったからここまでこれた」とか思えるといいんですが、自信の貯金箱には穴が開いているので上に書いたようなことばっかり、考えています。

しかし泣いても笑ってもあとはもう博論を書かないと…
アメリカ生活も、あと半年(ということになるはず)。

一時帰国2018夏

明日の夕方の便でアメリカに戻ります。今回の一時帰国は1ヶ月ほどだったので短めでした。その割には自分にも日本にも色々あった気がします。

まずバンクーバーでの乗り継ぎを待っている時に知ったのは大阪の地震。周りは日本人だらけだったので、一時騒然となっていました。その後にビジネスクラスのでっかい席に初めて座り、きょろきょろしながら日本に帰ってきました。なんというか待遇が良いのはよくわかったのですが、あまりに高待遇されすぎると普段人間のクズみたいな私は落ち着かないのでよくないなと思いました。

そのあとは学会。めちゃくちゃ緊張していましたが無事?終わりました。その後の知っている人だけ集めた飲み会がとても楽しかったです。美味しいものをたくさん食べてワインを沢山飲みました。

その後は何をしてたかというと体調がだいたい悪くて臥せってました。微熱がずっと出っぱなしという感じです。結局耐えかねて病院に行きましたがあんまり詳しいことはわからないまま。抗生物質を1週間飲みましたが、風邪の症状以外はそのままでした。夏バテなんですかね。

秩父を配偶者と旅行していた時に、公募に出していた大学から問い合わせの連絡があって、そのあと面接に呼ばれて行ってきました。義実家に行った次の日に向かうという弾丸旅行で、めちゃくちゃ緊張してめちゃくちゃ疲れましたが、みなさんが優しい感じでとても嬉しかったです。圧迫面接だったらどうしようとか思っていましたけど、終始和やかでした。他の面接を受けることになっても、そのような雰囲気だといいなあと思いました。

なんか色々あった気がするんですけどそこまでたくさんなかったのかしら?と書いていて思いました。でも自分の中ではいろんなことがぐるぐるした夏だったのは確かですし、人生ってわからないなあ、と思いました。

アメリカに戻ったら授業を教えるのと、あとは博論を頑張らないといけないというのが待っています。

今の時点ではただただ不安な気持ちばかりが募っていますが、頑張ろうと思います。

あ、あと今回の一時帰国では2kgくらい体重が増えたので、痩せたいです。

今年度大体終わり

今週で今学期の授業が終わりました。来週の火曜に期末レポートを回収し、採点して、それでおしまいです。
この日記は現地時間の土曜に書いてますが、今日は13時間寝てました。まだ採点があるけれど、ほぼ燃え尽きたというそういう状態です。

前回の日記を書いてから、ポスドクの応募1件と日本での仕事の応募を2件済ませました。終わったあとはやっぱり燃え尽きました。燃え尽きてばっかりの今学期です。特に日本での仕事の応募は1通送るのに95ドルもとられたり、FedExのおじさんがめちゃくちゃ手際が悪いし違う宛名シールを貼ろうとするしで、久々に本気で人を殺めたいという気持ちになりました。しかし、本当に純粋に疑問なんですが、郵送で公募をやって誰が得しているんでしょうね。電子媒体で管理していればコピーも共有も楽だと思うんですが。後最近見て笑ってしまったのは、自己紹介と教育の抱負を録音したものをCDあるいはカセットテープで送る、というものw カセットテープ、今どき手に入れるのも難しいし、しかも向こう側で再生できるんでしょうか…

今はただただ日本に帰りたいです。夫も精神的にとてもしんどいようです。そんなこんなで、先週指導教員の先生の一人とこれからの予定を話したときに、最近そういうことが色々あって弱気になっているという話をしてしまいました。具体的には:
周りが あの論文がなぜ出版されるのか あの人がなぜテニュアに と言っているのを聞くと、自分が仮にうまくいったとしてそういうことを言われそうなのが怖い
アカデミアの選択肢を外したほうがどちらかというと将来の不透明さがなくなるので良い気がする、とおもうことがある
自分が配偶者として良い行いをしていない気がする

とかをつらつらと話しました。
そうしたら、その先生も私と同じようなことで悩んだことがあるとのことで
あなたが見るべきなのは右の人でもなく左の人でもなくあなた自身
私達みたいなのは生きづらいけれど、でももっと良いものを書こう・出そうという気持ちをいつも持てるのは良いこと
アカデミアから外れることはいつでもできる。あなたは「外れたい」の?(ここで私が首を振る)
そうなら、やれるところまでやって、だめだったら違う道に移ればいい。今から諦めることはない。
大切な人の近くにいる妻や家族や友達にも、やれることの限界はある。「良い妻」だってあなたがやらないといけないと思っていること全部はできない。できないからって、悪い妻って言うことではないし、相手のことを考えて道を変えるのはおそらく相手も望んでいることではないし、関係性としてもよくない。

ということを自分の具体的な経験を色々と交えて話してくれました。途中で泣いてしまいました。こんな個人的なことをすみません、と謝ったら
この仕事は特に仕事と個人の間に壁を作らないでやるのは無理。私がいったことが助けになるなら、よかった!
といってくれました。

思い出して書いてたらまた泣きそうになってきた

というわけで、公募出してから この身の程知らずが不合格じゃおら というメールを貰う夢をみたりだとか、最近白髪が増えてきたとか、そういうことでどんどん気持ちが沈んでいく毎日ですが、先生の言葉を思い出しつつ頑張っていこうかなあと思っている次第です。

やれるところまでやってみます。

29

今週誕生日を迎えて29歳になりました。はてなブログさんから5年前の記事のリマインダが来たんですが、今と1ミリも変わってなくて笑いました。かつ5年前と今年でGAKUSHINに大わらわだったのが一緒なのもウケる。しかし今年出したのはポスドクの方です。3月の終わりからちまちま進めて今週やっと出せて一つ肩の荷が降りた気分です。たくさんの先生方に見てもらえて出来る限り直したつもりですが、どうでることか、こればかりはわかりません。

続けて来週は公募に取り組みます。どちらも5月末締め切り。もちろん郵送(笑)なのではやめに動かないといけません。そしてこうやってわたわたしているときに2つ立て続けで学会のリジェクトも食らったりして、やっぱりアカデミアに残るのはやめたほうがいいのかなともいつものことですが考えたりもしちゃいます。でもそんなこといっててもはじまらないので、とりあえず出来る限りのことをしてお仕事がもらえるよう、がんばるしかないです。6月にもいくつか出そうとしている公募があります。東京だったり地方だったり、どこに行き着くのか(というか行き着けるのか)わからないですが、マシンガンのように応募するしか無いかな、と思っています。

あと今学期のTAがめちゃくちゃたいへんです。しんたくすなんですけれど、課題が多いのと、Upper Divisionのコース、かつうちのしんたくすってなんというかクラスごとに結論が違ったりするのでもう混乱するばかり。しかも学期中に先生の授業を代講しなければならないということもあって、死にそうです。もうはやく夏休みになって欲しいし、日本に帰りたいという気持ちばっかりです。でも日本に帰ったその週末が学会です。就活のことも考えて応募しとくのがいいかなと出したら通ってしまいました。たぶんゴミみたいな発表をすることになります。お墓の準備が必要。

やっぱり体力が足りないなあという気がします。今日はもうくたくたでした。なんというか精神面と身体の両方の体力が必要というのをひしひしと感じますが、体力をつけるぞ!という行動がなかなか出来るわけでもないので難しいですね。

あてのない将来に毎日心を締め付けられるばかりですが、とりあえず死なずに生きていくのを目標に頑張っていきたいと思います。