うどんたべたい

うどんをたべながらげんごがくをするぱんだのぶろぐ

あらためて

今週のお題「2017年にやりたいこと」

明日から新学期です。信じられません。とりあえず授業の準備は全部終わっているしなんとかなるはずなのですが、いかんせん生活リズムがちゃんととれるかが心配。でもやっていくしかないのです。

そういえば前にもちょっと書きましたけれど、Habiticaというサービスをはじめました。ちょうど日本語で記事になっていたので貼っておきます
gigazine.net

私は心底駄目人間なので、これに毎日生きていく上でやらないといけないことを入れてチェックしながら暮らすようにしてみました。やると経験値がもらえてうれしい(単純)ので、簡単なものでも入れ込んでいます。例えば授業期間中だったら授業の後のPPTのアップロードを忘れないようにいれたり、次の授業のテストの印刷を忘れないようにtodoにいれたり。なんかやる気がでないときはここからできそうなものをえらんでやる、という使い方もできます。

本業の目標は前の記事に書いたとおりですが、他にやっぱり痩せたい、っていうのがあります 笑 なのでとりあえず新年あけてから筋トレを日課に追加しました。大それた筋トレではないですが、とりあえず続けてみて様子をみたいなあと思っています。今のところ6日続いています!快挙!

なんというか27にもなって今更ですが自分の性格というか何をどうしたら一番いいのかっていうのがわかるようになってきた気がします。自分はこれが得意でこういう傾向があって、みたいなのがわかりはじめたというか。例えば人に何かを指摘されたときに全部否定された気になってしまって、つい防御の体制に入ってしまうんですが、それもよくないことで、ちゃんと色々と素直に聞くべきだよなあ、とおもったりします。めんどくさいことも、最近は「明日の自分がきっと感謝する」とおもうとやる気になることが判明しました 笑 先延ばしにするとつらくなるのは自分なんですよね。

なんというかこういうゲーム的なものに頼らないといけないのがまず駄目人間っていうかんじがしてしまいますが、そういう人間なのはなかなかどうしてすぐ変えられるものではないとおもうので、できることからやろうと思います。

そうだ、あとはやっぱり貯金をしたいですね。なんというかあまり買い物しないので節約するとしたら食費になります。食費一ヶ月200ドルを目標に、それでも3食はとりあえずたべる、という形で。貯金額は目標にしているのがあるんですが、なかなか厳しいですね。家賃が収入の40%以上を占めてますし。たかい。つらい。自動車を手放したくなりますが、そういうわけにもいきません。御年16年のプリウス、とりあえず壊れないで動いて欲しい。

うーん、そのくらいかなあ。どのくらい達成できるのか、未知数です。というかまず本業の進め方をどうするべきか、学期が始まったらまず相談しないといけないんですが、先生方はなんとおっしゃるだろうか。いやはや胃が痛いですが、とりあえずやるしかないです。きりのいいところでやめて日本で仕事を探す、という選択肢が頭をちらつかないわけではないですが、でもやっぱり最後までやりたい。つらいけど、今は楽しい。でもつらい、の繰り返しの毎日です。配偶者が帰ってしまうと、こういうことをつらつら考えてしまうんですが、私は私でやれることをやるしかないな、とおもいます。

わー、これいつもの結論だ!ほんと、代わり映えのしない人生ですみません。

2016 -> 2017

2016年も終わりですね。私が今年の目標を記入した某SNSによると、目標は
>今年の目標は,なんというか良い意味で人と積極的に関われるようになる,とかそういうことですかね
ということだったようです。

まだ内向的なのは一切変わらないままな人生を送っているんですが、このクオーターを終わってみて思ったのは、週3回日本語の授業をすることである意味度胸がついたのかなあということでした。TAのセクションは毎回前に結構緊張していたんですが、週3回違うことを教えるとなるとそういう余裕がそもそもないという状態で、準備をしておりゃああ、って授業に向かうというかそんな感じでした。はじめての日本語の授業で色々と手探りではありましたが、学生がいい子たちばっかりだったので本当にやりやすかったですし、幸せでした。来学期は何と今のところ履修人数5人なんですが、アットホームな感じでやっていきたいと思います。

来年の目標というと一番にくるのはABDになることです。でもこれは目標というかマストでこなさないといけない条件なので、「できるだけはやく」を付け加えることで目標にしたいというかんじですね。他の本業の目的は論文を論文誌に一つは「投稿」することと(採択されるかは別として チキンで出来ていないので)、とりあえずいくつか考えている学会に発表申込する+そして採択されるような研究をすることでしょうか。なんというか業績に追われるというよりも、面白い結果が出たから他の人に聞いてもらいたい、聞いて意見をもらいたいという気持ちでそういうのを積極的に狙いたいなあと思います。なんというか3年目にしてそういう気持ちで発表に積極的になりたいなとおもえるようになりました。もちろん将来の事も考えて業績がほしいというのももちろんメインではありますが。5年間のプログラムの大体半分くらいが終わってるわけですからね #つらい

私生活?では体力をつけて痩せたいなあと思います。これ毎年言ってる気もしますけど、でもなんというか体力大事だろうなあといつも思うのですよね。。今年は夏からポケモンGOにはまったのもあったりして秋に少し痩せましたが、この休みで食べすぎたのでまた0からスタートという感じがあります。

2017年、どうなるのか今から全く予想がつかないところではありますが、2016年同様もがきながらも全力でやっていくということで頑張りたいと思います。みなさま宜しくお願い致します。

2016秋終了

ということで1クオーターおわりました。つかれました。日曜日にペーパーを提出して全てが終わったんですが、もうその後燃え尽き状態で。今もそうなんですがね。色々終わった瞬間にものもらいができました。身体も悲鳴をあげている。

はじめての「せんせい」としての1クオーターでした。私の授業はどうだったんだろう。クラスの雰囲気はとてもやりやすくて、私は楽しかったです。授業評価が怖いですが…。3人ほどFをあげなくてはならなくて、一応声をかけたりはしたもののやっぱりだめで、もう少し方法があったのかなあ、と反省したりします。でもなんというかどこまで私の問題として考えなければいけないかというのも難しいなあと思います。うーん。
来学期の履修登録者はなんと5人です。(22人が最大) 時間と教室の場所がネックのようで、「先生ごめんなさい他のクラスじゃないとつらい」と連絡してきた子がいるくらいなのでみんなそういう理由なのでしょう。ちなみに続けて取る義務自体がないので、それならそれ、というかんじです。

肝心の本業の方はできるだけがんばったつもりですが、どうでしょう。わかりません。そりゃこれをやれば100点でおしまい、というものはまずないのでそれを求めることが間違っているんですが。大きな会議にアブストラクトを出してみましたが、どうなるかは神のみぞ知るというかんじです。

でもなんというか今年の終わりまでに一区切りつけねばならないというプレッシャーが大きくて大きくて、それでつぶれてしまいそうになりかけています。なんというかお金を上手く工面すればABDになるのを延ばせるかもしれなくて、そういうのを自分から先生に提案したほうがいいんじゃないだろうか、とも思ったりします。でも延ばすことがいいこととも思えないし…。なんというか、周りの優秀な人が誰ひとりとして3年目の終わりでそこまでいけてないので、自分がそれを目指すことが本当に出来るのかと心配だし、そこを気を遣われて質の低いもので通されたりしてしまうとそれはそれで学科に良くないんじゃないかとか言うことも考えてしまって。考え過ぎなのかもしれませんが。

なんかそんなことを考えているからものもらいができるのかもしれませんね。

休みになったもののそんなこんなで心が休まらずにただただそわそわしています。夫が来たらこれからの二人の人生についてもゆっくり話し合わないといけないなあと考えています。何がいい人生で何が幸せ化はわからないけれどなんというかお互いのベストを何らかの形で達成できたらなあと思いますね。

感謝祭

いわゆるthanksgivingの週末で4連休でした。初日(thanksgiving当日)は大家さんの所属する教会のディナーにいくことに。ポットラックだというので、何か作ろうか?と聞いたら 忙しいだろうし疲れてるだろうから心配するな。お前の分も持っていくさかい。 と男前なお返事をいただいたのでお言葉に甘えてきました。(大家さんは女性です) 久々に(というとやばい感じがする)お腹いっぱいちゃんとした(笑)ごはんをたべました。食べすぎて次の日お腹痛くなって半日寝てたくらい… 

2日目はそんな感じで半日寝ていて、午後から始動。その割には効率よく色々できました。そういえば最近habiticaというアプリをはじめまして、これがゲーム脳の私にはとてもいいんです。todoや毎日やるべきタスクをいれこんで、それが達成されると経験値やらお金がもらえてレベルアップさせていける、という代物です。todoを限りなく細かくしてちゃかちゃか経験値があがるようにしてモチベーションをあげています。とてもよいです。

最近はこの年の終わりまでに博士論文執筆資格審査を通らないといけないということもあってそのプレッシャーで心が死んでいますががんばるしかないですね。心に余裕が無いとどうして留学生の私だけこんな目に遭わなければならぬのだ、とおもうんですが(アメリカ人にとってはあんまりタイミングは大事じゃないのですが、留学生は通ると1年150万の留学生料金がなくなるのででかいんですよ)、まあ5年でしっかり卒業するためには仕方ないと思ってやるしか無いです。

来週で授業が終わりです。信じられない。。自分が教えているクラスの期末テストの採点、そして成績つけがあって、さらに自分が書かねばならないペーパーが2つという状況ですがなんとかやっていきます。それが終わったら夫とぬくぬく冬休みです。贅沢していいものたべるぞ!!

ざわざわ

大統領選が終わって、無意識にかなりダメージを受けているみたい。夢にも出て来るし、眠れなかったりするし。周りもみんな本当に驚いているし、落ち込んでいる。でも私がここまで落ち込むのはおかしいんじゃないかとも思ってしまい、それでまた悩む。みんなが幸せに笑顔で暮らせる国になってほしいという、小学生でも考えられそうなことをただぼんやりと考えている

スタンダード

昨日院生室で耳に挟んだ会話でちょっと「うーん」とおもったことがあったので書いておく。まあ端的に言えば「授業は時間の無駄」とか「労働時間に事実上制約がない院生はちょっと」みたいな話だった。最近うちの博士課程のプログラムは博士で入っても途中でやめていく人がぼちぼちいる。それが悪いことだとは思わないけれど、なんというか異国からそれなりに覚悟と決意と希望を持って来ている自分としては複雑な気分になる。確かに授業が時間的な負担になることはあって、今学期も実質teachingをしているので余計につらいことはあるんだけど、それが「時間の無駄」だとはおもわない。なんというか消化不足でぷすぷすすることはあるけれど、それは自分のキャパシティの小ささが問題だったりするんだろうなあという結論になるし、授業そのものはどれも本当にいいな、とおもうので。でも私がそう思うのは日本でのあんな経験やこんな経験があるからだろうかなあ、とも思う。彼らにとっては、アメリカのこの学科のこのやり方がスタンダードなのである。比較対象が多分他にないんだとおもう。特に学部からそのままあがってきた学生は尚更そうだと思う。大学院生に事実上労働時間の制約がないっていうのは確かで、それがつらいとおもうこともあるけれど(休みの日に休んでいると罪悪感に襲われるとか)、私は日本でその研究に打ち込むっていう時間すらまともにとれなかったから、今現在の(i)ちゃんと教育経験とみなされる仕事をして(ii)それだけで生活に必要なお金がもらえ授業料が免除され(iii)すごい教授陣にサポートしてもらえる っていう環境はやめよう、っていう発想なんて本当につらい時以外持たないくらいとっても素敵な環境なのに。

この前夢で「あなたのビザに問題が有りました。もう大学院にはいられません。日本に帰ってください」って言われて、私はそこで「私がどういう気持ちでこの国に来てるかわかってるんですか?私はここでちゃんと研究をして、博士号をとりたいんです」って大泣きで訴えていた。その夢はなんというか私の「いつ出て行けって言われるんだろう」っていう不安を反映していてつらいきもちになった。

みたいな話を週1で話している知り合いにいったら、「あなたが真面目にやっているのはみんなわかっているから、大丈夫よ。そしていろんな場所の経験があるっていうことはきっと将来役に立つよ」っていってもらえた。たしかに、つらいおもいをしたら人に優しくなれる気がする。なんというか、私は私でここでできることをするだけなんだな、と何回目かわからないけれど改めて思ったりしたので、記録がてら更新。

新年度

クオーター制なのでようやく新年度が始まって一週間経ちました。フルの一週間をはじめて経験したあとの週末で、ぐだーっとなっています。

もう私の中では色々なことがありました

・はじめての日本語の授業
今年度は初級の日本語の授業をすることになっています。日本語を教えるのははじめてです。しかも一応instructorということになっているので学生の履修のあれこれとか、今まで先生に任せていたことを全部しなければならずあたふたあたふた。幸いにも教材は前の年のを流用できるんですが、去年受けていて落ちている子もとっていることもあり、ほんとにそのままというわけにはなかなかいきません 笑 朝8時のクラスなので、7時過ぎには教室について教室の椅子の配置を変え、色々準備をして学生を待っています。まあでもたのしいし、今のところ学生はまじめにやってくれているのでこのままがんばってほしいです。私もこのままがんばります。

・履修あれこれ
全て書くと長くなるのではしょりますが、ちょっと履修であれこれあって落ち込んだりしました。かいつまんで書くと指導教官たちとの間では私は今年はteachingもあるし、自分のことも勧めないといけないのでfinalがある授業を二つとるのは大変だからやめよう、ということになっていたんですが、それでfinalがない設定で授業を取ろうとしたらその授業の先生にはfinalがあってもそんなに負担じゃないだろう、といわれてしまって。そうか、そんな選択を取ろうとしていたのは甘かったんだろうか、と悩んで指導教官の先生方に「というわけなのでfinalがある版を取ろうと思います…この前話したのと違う感じになってすみません」とメールしたら即ちょっとまってまってというメールが飛んできて、思ったことを話したら一人の先生がindependent studyということで別に指導してくれることになりました。(ある程度の単位を取ってないとfull-timeとして認められないのは、日本の大学院と違いますね) なんというかただでさえ学科のお荷物だと思っているので期待されたことすらできないのはだめなのかなとか色々考えてしまいました。まあでもやっぱりアドバイザの先生がそれでいいというのですから、それを信じようと思います。

いろいろというほどいろいろじゃなかったかもしれない。

もうひとつ新学期に関係あるようで関係ないこと

・ひとのやさしさ
なんというかそんな中でも優しい人というのは周りにいて、そういう人たちの存在ってすごくありがたいんですけれど、なんというかそういう人たちを純粋に受け止められないなあと最近考えています。自分でもそれはひねくれ過ぎだよなあとは思うんですけど、そういう優しい人って自分がないがしろにして相手が自殺でもしたら後味が悪いから優しくしてるんじゃないかなあって思っちゃうんですよね。そうだとしたら気を遣わせて申し訳ないなあ申し訳ないなあ、とそういうことばっかり考えてしまいます。まあなんでそう思うかってそう直接伝えられたことがあるからなんですけどね。死なれたら僕が困る、と。なんというか今思えばそこは建前でも死んだら悲しいから死ぬなといっておくところでしょうよ、とおもうんですけれど、まあでも人の本音としてはそういうのが確かに素直な気持ちなんじゃあないかな、とも思います。死んだら悲しいから死なないで、というのは多くの場合ある意味無責任なことばでもあるわけで。そりゃ言ったから責任を取りなさいよ、というつもりはさらさらないんですけれど、なんというかそういう風に思ってしまうこともあるのです。しかしながら、後味が悪いから死ぬな、といわれると そうか死んだらこの人に迷惑がかかるのか、どうしたらいいだろう、遺書に全然関係のない理由をつらつらと書けば、この人はああ自分のせいで死んだのではない、とおもえて傷つかないのだろうか、などとも考えました。でも後味が悪いから死ぬな、もなんというかそれで生きねば、と思わせてるという意味ですごく無責任ですよね。そのつらさを負担してくれるわけではないのに。
まあそんなこんながあって、人の善意をそういう風にとってしまいます。お医者さんとかカウンセラだったらまあその人達はお金のためにやっているのだろう、と思い(まあそれは正しい)、先生や周りの人だったら死なれたらやはり後味が悪かったり学科の評判が下がるからだろう、だとか、あまりに私が駄目だから助け舟を出してくれているのだろう、申し訳ない、とおもってどんどん沈んでいきます。まあそういうひともいるかもしれないけど、そうじゃなかったらその人達にとってものすごく失礼な思考なのに。

これって、どうなんでしょうね。自己肯定感が持てないと変えられないのかな。

この辺の思考が最近ぐるぐるしているので文章化してみました。そんなことしている場合ではないのだけれども。あとこの一週間を9回繰り返せば1クオーターが終わり、もう数回繰り返せば配偶者が遊びに来てくれるはず。それを目標にまずは3ヶ月生きていこうと思います