うどんたべたい

うどんをたべながらげんごがくをするぱんだのぶろぐ

だらだらと振り返る

今日は修士の間一人暮らしをしていた部屋の退去手続きだった.もう荷物は月曜日に全部出してしまってあって,がらんとした部屋に粗大ゴミに出す椅子と一緒にガス屋さんが来たりするのを待っていた.しばらく待ってもガス屋さんが来ないので,予定を変更して管理人さんに椅子を明日の朝に出してもらえるようお願いすることに.よくよく考えるとその椅子は,はじめて自分の部屋をもらって自分の机をもらってから使い始めたもので,それが高校に入るときだったから,10年くらいの付き合いになる椅子だった.そんなことを考えながら部屋に戻った.高校に入る時に部屋をもらった,というと「え?」とおもう人もいるかもしれない.そう,「え?」なのである.それまではリビングダイニング寝室,といった間取りで子供たちに部屋はなく,寝室に両親と私,双子の弟でごろ寝だった.別に多感なお年頃だからうんぬん,というのはなかったけれど,勉強については困ったものだった.弟は勉強が嫌いだから,一緒に勉強する,とはならない.とりあえずふとんを敷き始める時間になるまでは寝室で勉強していた.家族が寝る時間になるとそのまま一緒に寝るかリビングに移る.そして早く起きて,誰もいないリビングで勉強.早起きは高校で片道2時間近くかけて通っていたので慣れていたと思っていたけれど,ルーツはそれより少し前にあったのだった.だから高校受験はかなりつらいものだった.公立中学校から,まあ良い国立の高校に外部入学を果たすには,やっぱりそれなりに勉強しないといけないわけで.それでもどうにかこうにか受かって,それで3駅ばかりとなりに引っ越し(この理由は勉強云々よりももう年齢的なものが大きかったのだけれど),はじめて部屋をもらったのだ.そして,机のほうはかなりしっかりしたものなので,また彼と住む新居に持って来た.彼に使ってもらうつもりである.そんな思い出の机.
今日書きたかったのはここの部分というよりは,やはり修士2年間の話のほうで.修士2年間は東京で一人暮らし.別に家族仲が悪くなったわけではない.私は家族に対して幾分複雑な感情を持っているけれど,まあ仲良くはやっているほうだとおもう.父親が定年になって,それでもなお生活費を払わせるというか,養ってもらうのが嫌だっただけ,本当にそれだけ.えらいとか言われることもあるけれど,えらいもえらくないもなくて,金銭的に迷惑はかけませんから,一人にして下さい,といって出て行った,というのが近い.もちろん一人暮らししていた間,時々何かを実家から運んでくれたりとか,そういうことはあったけれど,家賃も入れていたし,ささやかな仕送りもしていた.お金は学生支援機構から出来るだけ借りて,バイトは少なくしようとしていたけれど,仕事を頼まれると断れずに膨らんでいくばかり.そして,少し貯金が出来ると語学研修に思い切っていったり,興味がある学会にいったりした.バイトなしではこんなことはできないので,バイトもよい経験だったと思う.
とはいえ,大学のなかでもいくつか仕事をし,かつ他に2カ所で働くとかいうのは時間も体力も奪うわけで,そんなことしていたら自分のことは全く進まないわけです.時間の使い方が悪いと言ったらそれまでで,それに対しては弁明の余地はないですが,それでものすごく思い悩んだこともあります.先生とのミーティングを設定しようにも,全然時間が合わなかった時になんとなく小言っぽくいわれたことも,なくはないです.仕方が無いとはいえ,やっぱりつらかった.でも,仕事をもらえるのはもらえるので嬉しかったのも事実.時間が作れないほうが悪い,とおもってどうにかまわしていた.
そんななかつらかったのは大学でやっていた一つの仕事.詳しくは書かないけれど本当に参っていた.こっそりトイレで泣くこともあった.先輩の好意で一度抜けられたのだけれど,そのあとまた戻ってしまうことになったりして,今も禍根を残していたりする.悪い記憶ばかりではなくて,良い記憶も中途半端にあるのがまたつらいのだけれど,でもいまになって冷静に見たら,おかしな状態だった.修了も目前となった今年に入ってから指導教官にはなしをしたわけだけど,もっと早く言えればよかった.
あとはもちろん時間をかけられなかったから当たり前なのだけれど,どうしてもいい研究ができなかった.(良い研究とは何か,というのはあるけれどなんというか納得出来るもの,だと適当にしておく) 申請書の類もそうだった.んで学振の結果がけちょんけちょんだったあとは,もうだめだと思っていた.うちの研究室からは先輩が去年選ばれていて,先生からも「いける」といわれていた分つらかった.そもそも,先生が私をすごく出来る子扱いしすぎているのもたぶんにあるのだけれど.
話は前後するけれど,結局このまま研究を続けるには奨学金をかりながらバイトをしていくしかなくて,今の状態だったら博士にいってもだらだらするだけだと思っていたので,学振がだめで,海外留学も出来なかったら,その時にはもうやめます,というはなしを先生にしたこともあった.「もったいない」と先生は言った.私はネガティブだし,先輩や同期は優秀だから,先生はまあ結局私のことはどうでもいいんじゃないかなあ,とおもっていた.研究テーマも多少ずれているし,言語も違うし.そういったことを考えると居場所がない,とおもっていたのも事実だったので.まあでもそのあたりから,先生には思っていることを少しは言えるようになって,結局前に書いた仕事の話もいえるようになったんだけど.
そして真っ暗闇の中修論を書いていた私に光をあててくれたのが,某奨学金団体二つからきた採用通知だった.どちらも「どうしてわたしが」とおもった.んでもって両方受けられるなんて,ギャグだろう,とおもった.それくらいびっくりで.採用者の集まりにいってみてもそこはやっぱりなんか違う雰囲気で,どうして私が,っていうかんじは拭えなかったけれど,幹部の方達やスタッフの方達が本当に親切で,そういうところにすごく救われたりもした.
んでもってどうにか修論を書きつつ,こんどは出願,ということでがちゃがちゃやっていた.どちらの奨学金も,どこの大学院にも受からなかったら内定取り消し.そんなことになったらもう誰にもあわせる顔がない.そうおもって結局8校に出願をした.このためにTOEFLGRE, IELTSなんかをなんども受けたし,郵送費や出願料もめちゃくちゃかかった.今もリボ払いにしている.でも,なんとしてでもどこか受からないといけなかった.
12月中旬に修論を出して,1月からは結果待ちの長い期間.とくに結果が例年来ているらしい期間はめざましをならさなくても朝3時くらいには目を覚めてメールを確認する始末.ノイローゼになりそうだった.そんななかで最初に来たちゃんとした通知が,合格だったことが本当に私を救ってくれた.そのあとには補欠や不合格通知が続くわけだけれど,本当に最初に合格がきてよかったとおもう.しかもそれが口頭試問の前の日.本当にタイミングがよくて,よかった.そのあともう1校からももらえて,今は迷っている状態.
そして今日修了をちゃんと掲示で確認してきた.正直,この2年間はつらかったんだとおもう.その証拠が,私が今日退去手続きを待っていた間にひたすらあふれて来た涙だったのかもしれない.今まで一生懸命なんとかやってきたけど,つらかったんだなあ,って.海外で発表する機会ももらえたりしたし,特に大事な先生と会えたということでこの2年に全く価値がなかったというつもりは毛頭ないけれど,でも,ないなら無いほうがよかった2年間だった.そもそも,修士も留学しようとして,全滅したのでそのまま国内で進学した,という背景もある.だけど,そこをばねにして,なんとか今があるのかなあ,と思ったりもするから,なんともいえないところだなあ,とおもう.
アメリカではいわゆる修士からやり直し,と考えていいと思うんだけど,今度は本当に学ぶことに専念出来ることになる.なんだろう,私としてはその状況がいまいち把握出来ないのだけど(交換留学中ですら仕事してたし),本当にしあわせなことだとおもう.なんかうまくいえないけど.だから,向こうでの5年間は,この2年間を取り戻すつもりでやってきたい.取り戻して,それ以上を得てきたい,というのが今の気持ち.
なんで今日これをかいたか,というと,修了したことを確認して あばよ って気分になったのと,明日のフライトでアメリカに行って,二つのうちの一つの大学を見学しにいくから.不安で仕方ないけれど,たのしんできたい.(とりあえず今のところ7:3くらいで傾いているほうなので) 今週末でのアメリカでの日々が,私にとっての新しい旅立ちのための一歩になりますように,と今から祈らずにいられない.


追記:常体と敬体が混ざっているのはお約束ですね