うどんたべたい

うどんをたべながらげんごがくをするぱんだのぶろぐ

もうすぐでぃふぇんす

とりあえずこうとうしもんに使うバージョンの草稿を提出しました。あとはなんというか銃弾を全身に浴びて、直したものを出すだけという形になりました。

この水曜日に指導教官のうちの一人とミーティングしたんですが

自分の母語じゃないことばが話されているところで、ここまでのものを書いたんだから、もっと自分を誇らしく思いなさい
(彼女はこの6月で退職なんですが)あなたが私の最後の学生になるみたいで、よかった

といわれました。
もったいなさすぎることばで、胸がいっぱいになってしまいました。

そこで
私はなんというかこんな素敵な学科から学位をもらっていいのか、というふうに考えていたからそういうふうにいってもらえるとうれしい といったら

あなたは入ったときから私はここにいるべきじゃない、といっていたけれど、5年私達がそんなことないと説得しようとしても変わらないのね と笑いながら言われました。
なんというか、ごめんなさいと思いつつ、本当にここに来てよかったと思いました。

思えば高校に入ったときから大学大学院とずっと 私はここにいていい人間じゃない と思ってきました。
でもそんな話を一度指導教員にしたら
そう思って努力しようとするのが、あなたのいいところなのね といわれました。

冗談交じりで、今いるところはジャパリパークみたい、という話を一部の人にはしてきましたが、本当にそんな感じです。
私は「奨学金はもってきました、がんばりますからここにいさせてください」という感じで大学院に出願して
合格したらしたで、 奨学金があったから入れてもらえただけなんだ… と思っていました
(だって周りがアメリカの有名大学から来た人たちばっかりだったから)
でもいれてもらえたんだからがんばらないと、とおもってどうにかやってきたんですが
優しい人達のおかげでどうにか一応のハッピーエンドが迎えられそう?です

本当のハッピーエンドにできるように、しないといけないことはまだまだあります。
いい口頭試問をすること、最後にいい形で論文を提出すること。
それがお世話になった人にできる唯一で最高の恩返しだと思います。
(あとは仕事を始めたあとに自分の学生に自分が受けたやさしさをわたすこと、かな)

アメリカ生活もあと1ヶ月。悔いのないように生きていきたいです

どろどろ

どろどろしたものを吐き出すポスト。

こんな事書いてないではくろん書き上げないといけないのですが、吐き出さないと頭の中でぐるぐるするので出しておきます

・はくろんとはくしごう
出せたはくろんがいいはくろん、と人々はいいますが、本当にそうでしょうか。というか私のやつの場合、そんなことないよなあと考えてしまいます。今手元にあるものがただのゴミにしか見えない。こんなものを出してがくいをもらえたとして、それで学科や先生方が悪い評価をされないだろうか。私は今いるところは国としては好きになれなかったけれど、学科とか先生たちはとっても好きなんですよ。まあわたしみたいなやつの評価でゆるぐほどのあれではないとも思うんですが。もう卒業するための書類も書いたし、昨日日本への片道切符も買ったんですが、もう全部やめて色んな人に謝って首でも吊ったほうがみんな幸せになるのではないかとかいうそういう事を考えています。はくしごうって、こういう頭が悪い人間がとっていいものじゃないし。

・おしごと
いや一応お仕事をもらえたわけなんですが、特に日本だからというのもありますが結局「私が女だから」もらえたんじゃないかとか考えてしまいます。応募したところはそんなことなかったとおもうけど、同等の人がいたら女性を優先するって書いてある所あるじゃないですか。弊社to beも一応女性を雇用してサポートしよういう気概が高いらしいし、あと大学の性質上私が所属する教養系のところ以外はもう男性ばっかりなんですよね。まあそんなこんなもあって、いや私でいいのかという。大学のセンセイって、もっとやっぱり頭が良い人がなるべきだとおもうし。なんというか全ては私の頭の悪さがいけないというか、まあ勉強とかしてやろうとしてはいるけれど、頭が悪いのは悪い。

・そうじて
私は今すごく恵まれていてラッキーな状況にいると思うんですよ。でもそれだからこそ、とりあえず私が死んどけば他の人のためにポストやお金が使われてその人達がハッピーになるのではないかとも思います。周りの色んな人は you deserve it とかいってくれますけど、それは結局過剰評価で、というか多分ほうっておくと私が死にそうだから言ってるんじゃないかとしか思えないんですよね。 どうしたら人のポジティブなコメントを素直に受け取ることができるんでしょうか。あと数ヶ月で私30になるんですが、やっぱりどうしてもできないことの一つですね。


しんどいですね。
でも新生活は楽しみなんですよ。夫とようやく一緒に暮らせるし、なんと食べる部屋と寝る部屋と仕事する部屋を別にできそうだし。ただそれまでの過程とそこでもらえる物理的なよいことやそうでないよいことを受け止めるのもしんどいというかなんというか。でもそれをもらわないと他の道もないんですよね。死ぬしかない。
なんか奨学金でもなんでも、もらえて やったーワハハ ですむようなひとになりたいです。もらえて嬉しくてもふさわしくないとうじうじしてしまう、そんなのから少なくとも卒業したいけど、死なないと無理な気がする あるいはそういうロボトミーをするみたいな。

非現実的ですね。やれることをやるしかない、それはいつもの結論なんですが うーん。

新居確保

皆さんクリスマスおめでとうございます。
今年のクリスマスと年末は3年ぶりに日本で過ごすことになりました。

この前に書いた記事から何があったっけと振り返ってみたのですが、正式な内定通知から書いてなかったのですね。そのあと、配偶者も同一の県内で非常勤を見事ゲットしてくれて、来年4月からは一つ屋根の下に住めることが確定しました。しばらくは東京都と私の新天地との国内遠距離婚(太平洋を挟んだものを経験した身としてはなんのこともない)を覚悟はしていたのですが、見事来年3月末に遠距離婚終了と相成ることになりました。ハッピーエンドですね。(私が博論書き終えれば

ということで、先週日曜(16日)に帰ってきて水曜木曜(19-20)で新天地で新居を確保するという暴挙に出ました。

アメリカにいる間に色々メールで日本の不動産屋とやりとりをしてみていたのですが、2件からは連絡が自然消滅したり、連絡が途絶えたりという感じで そんなにめんどくさいか… と落ち込んだりしました。まあ私が求めている条件がめんどくさいのはわかるんですが(私の名前で契約、私は今住民票が日本にない、私も家人も3月末まで引っ越せない)、ここまで自然消滅するとは思っていませんでした。結果として、生き残った1社に訪問して、3月10日に空き予定の物件を内覧なしで3月20日付けで契約することにしました。駅近2LDK、築10年くらい、インターネット無料、カウンターキッチンありなど、言うことなしの物件です。審査が心配でしたが無事通ったようで、費用の入金などを昨日済ませました。あとは契約書を書いて返送するだけです。

私は22年間公団の団地住まいだったし、結婚してからも1Kに二人で何とか住んでいたという状態だったので、なんというかs新居が素敵すぎてとても興奮しています。それに、やっと二人の新婚生活が始まるんだな、という感じでとても嬉しいです。でも東京だったら正直この家賃で二人暮らしは不可能だったので、ある意味ちょっと地方(といっても車がなくてもなんとかなるような)に住めるという流れは良かったかな、とも思います。土地の名物のものを物件を探しながらたくさん食べてきましたが、もう文句なしにすべてが美味しかったです。仕事はいろいろと不安ですが、4月からはきっと楽しく夫婦で過ごせるんじゃないかなと思います。

今日はローストビーフとグラタンをこさえてアルバイトから帰る配偶者を待ちました。日本にいて彼といると、やっぱりアメリカで一人でいるよりたくさん笑って楽しいので、彼と夫婦でいてよかったなあと思います。カリフォルニアから持ってきたおいしいワインを飲んで酔っ払った勢いで書きました。また年があける前に振り返り記事を書いておきたいものです。

2.17

昨日(ここの時間で10月12日)はジェットコースターみたいな日でした。

朝4時、目を覚まして携帯でメールチェックするとがくしんからメールが来ていました。結果が出てるよ、というやつ。
電気をつけないまま配偶者に連絡してパソコンをひらいて結果を見ると ふさいようしー 。すべてがぼろぼろの評価でした。タイトルの2.17は研究者としてのししつの点数。5点満点。一番いい点数で、これ。

絶望でした。5年前のがくしんもCだったけど、5年経って何も変わっていないのか、やっぱり私は向いていないのか、と。

今なら思えるんですけどあの申請書から資質をどう見るんですかね。なんとうか名詞の指示対象がでかい。でも点数化されて、お前はこんなもんだよ、といわれるとめちゃくちゃ落ち込みました。いや落ち込むところが向いてないといわれたらそれまでだけど。

落ち込んだので大学にもいきたくなかったけれど、幸か不幸か火曜日に予定されてたミーティングがリスケジュールされていたのでいかねばならず、行って時間までずっとぼーっとしていました。アドバイザではないこみてぃーの先生とのはくろんのミーティングだったのでもともと緊張していたんですが、力が抜けすぎて緊張はなくなり、まあ普通にすませたんですけれど、そこで いいじゃん! といわれたので不思議に少し元気になりました。ここで、自分を落とすのも上げるのも、自分の好きな研究なんだなあと思ったりしました。

終わった後すぐ帰ろうかな、とまで思っていましたがコロキアムのトークも聞きました。でも あれ? ということがあっても今の自信のなさだと あれ?とおもったわたしがおかしい? となって聞けませんでした。まあこれはいつでもそうなんですけれど。自信がないと、こういう一撃で瀕死になるんですよ。ほら、私の今までのあれこれはやっぱり運だったのよって。

金曜だしもう酒を飲んで数日だらだらして切り替えるぞ と思って帰って配偶者とFacetimeで酒を飲みながらしゃべっていると、一通のメール。ここにはかけなかったんですが7月に面接を受けた後内定をもらっていた大学からのメールで、評議会で採用が正式決定になったというメールでした。ずっと連絡がなくてもしかして評議会でだめっていわれてキャンセルされたのでは、でも怖くて問い合わせなんてできないっていう日々をここずっと過ごしていたのです。このタイミングで送ってくるなんて、なんということでしょう。ドラマチックすぎませんか。

しかもそのメールにはもう研究室も確保してあることがかいてありました。ついたら椅子も机も本棚もコンピュータも初動経費というやつで買ってもらえるらしいです。好きなのを選んでいいらしいです。え、なにそれ、ってかんじです。学会費も研究費から出せますから4月になったら〜とか書いてある。でも何より、「もうあなたの場所は用意してありますよ」という感じでメールが来たのが嬉しかった。

しかしそれでも2.17、ずーんときます。そんなの雇用していいの、って私が逆に聞きたくなります。
でも私がやるべきなのはそのくらいの資質しかないだろ、という評価をしてきた人をどうにか見返せるように経験を積むことなんだろうな、とおもいます。

というわけで、正式に3月までに卒業して、4月から日本で働くことに決まりました。もちろんはくろんのプロセスや4月からの新しい生活に不安はたくさんありますが、とりあえず生きていく道が当座の間は確保されたようなので、よかったです。がんばります。

ちなみに新天地は関東ではないし、親戚も友達も身寄りもない場所です。でも、美味しいうどん屋さんがあるのでとてもたのしみです。面接前日に行って、また食べに来れたらいいなと思ったので実現できそうで本当に嬉しい!

燃えていたのは私かもしれない

院生が某大学のキャンパスで焼身自殺をしたということが大きな話題になって、私は「彼は私だったかもしれない」という側の人間でした。それをめぐるついったのタイムラインでの色々なやり取りを見るだけでこの週末はなんだか疲弊してしまいました。

死ぬことはないのに という言葉は、とても無責任だと私は思います。特についったのようななんでも吐けるようなところに、死んだ人のことも知らないで言う言葉じゃないと思います。その一言を言う以外に当人に何かが出来たわけでもないでしょう。死ぬのだって、きっと悩みに悩んで選んだ結果で、特に完全な部外者がとやかく言えることではないと思います。

今ここまで生きている中で、いくつか違う人生を送ることがあったかもしれない分岐点があると思うんですが、その中のどれか一つ違うところを選んでいたら彼は私だったかもしれないし、これから先にそういうルートに行くことがないとも言えません。私は留学したい理由を聞かれたときに そうじゃなければ研究が続けられないと思うからです(金銭的な意味で) と答えました。私はまだ恵まれていたほうだとも思います。実家から東京の大学に通える距離でしたから。某振興会のとくべつけんきゅういんの結果がふさいようCだかなんだかとりあえず一番下だったんですが、その結果を奨学金の面接2つの前にもらったときは、 ああ、もう駄目なんだな と思ったものです。もしも博士課程の学費が見繕えなければ、とりあえず博士課程には進むという体にして、休学して、職を探そうと思ってはいましたが、そうした未来が目の前に見えたときには当時バイトしていたコンピュータ室でこっそり泣いたのを覚えています。

まあそれからミラクルがたくさんおこって、今こうしてアメリカにいるわけです。でも私は優秀だから来れたんじゃない、たまたま奨学金という宝くじを当てたから来られたのだと、最終年度の今もずっと思っています。沢山の人が「努力家だね」というようなことを言ってくるけれど、私としては全然そんなことはないし、人より頑張らないと人並みになれない、とおもっているだけです。運も実力の内、という言葉もありますけれど、そうだったとしてその実力がこれからもどうにかなるのかはわかりません。そうしたらまずは、今できることで可能性を広げることをやっていくしかないわけです。

こういうところで自己責任のような単語を出されるとつらくなりますね。そりゃそうだけどそんなこといったら誰の人生もそうだと思うし、どういう選択肢をとっても最低限の文化的生活を送れるようになればいいなと思うのが、筋じゃないですか。私はそういうところにガツンと貢献できる何かができるようにはならないと思いますが、少なくとも周りの人がそういうふうにできる手助けはしたいと思っています。

はあ。という今はくろんを書いていますが、つらいですね。今までやってきたことをまとめるだけでも、なんだかつらい。本を書くようなものとはよくいいますが、しゅうろんの短さのものを書いていてあんなにヒィヒィ言っていたのはなんだったのかという気持ちにもなりました。つらさの対策、どうしたらいいのか自分でもわかりません。とりあえず書いて書いて書くだけですかね…。。

あとよくわからないんですが最後のクオーターにもう一つ講師として授業をすることになりました。TAする予定だった授業がどうやらキャンセルになったらしくその都合でなんですが、最終クオーターが死ぬほど忙しくなりそうです。つらい。でも、やれる?と打診をもらえたことと、ここでにほんごがくのような授業をできることはとても嬉しいので、最後までやりきって当たって砕けてから日本に帰りたいと思っています。精一杯緑を輝かせて散ります。

すごくなれると思っていた

9月になりました。ここからアメリカ生活の終わりのカウントダウンかな、とおもうとしんみりします。


私の学部・修士でいっていた大学・大学院からはそれなりの数の先輩がアメリカに行っていました。大学にラッキーで入れた私から見たら、とってもキラキラして見えた先輩たち。ある研究会で発表する人たちはみんなアメリカ帰りか、外国の人。アメリカに留学したら、そんなキラキラした感じになれるのかなあと思っていました。

私のアメリカ生活もあと半年。私は全然キラキラしたという自覚はありません。私はまぐれで奨学金を取れて、まぐれで今の場所に呼ばれて、まぐれで今博論を書けば終わり、という状態になっていて、まぐれで次の行き先が決まりそうになっている。みんな私のことを hard workingなんていうけれど、それは私のもともとがバカだから、何倍もやらないとついていけないからだし、怠惰なところもたくさんあるのにただ気づかれないだけ。次の行き先が決まりそうなのも、私がたまたま女という性別だからだろうと、そう考えている。

多分あと半年で劇的に変わるということはないと思うと、私は5年間私のままだったということになるとおもう。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。アメリカに行っても、(私から見て)キラキラした先輩たちみたいにはなれなかった。

それでも、それがアメリカ生活が無駄だったということにはならなくて、私はもし自分に出来ることがあるなら、いわゆる普通の家出身の純ジャパでも、留学して頑張れるということを他の人にも伝えていきたい。私がダメでもともとでやってみてうまくいった経験を、やってみても無駄じゃないかもしれない、といって若い人たちに伝えたい。

でもどうだろう、次の行き場は研究には決して向いているところではない。専門の科目は教えられない。私はそこが自分の最後の場所ではないと思っているけれど、実際問題として次の行き場にいけるくらいの経験を積めるだろうか。

でも何より大切なのは借りたお金を返して、自分の力で生きていくこと。そうじゃなければ本当はもう少しあとに働き始めたかった。ここで、少しでも実家が太かったり、借りたお金のことなど心配しなくていい人達のことを僻む気持ちが出てきてしまう。でも、私はそういうところに産まれなかったのだから、やれることをやって地道に生きていくしかない。

義妹にも子供が産まれた。幸い私が次に行きそうなところは、女性への手当が厚いようだ。子供も作りやすいかもしれない。でも、私は自分の子供には自分がしたような思いを絶対させたくないという気持ちから、子供は作りたくないと思っている。すでに義姉に子供が産まれた時点で自分の居場所がないというふうに感じていたけれど、そんなのを理由にして産まれる子供もかわいそうである。昨今話題にあがる生産性という言葉は私の胸にも重くのしかかっているのは事実だけれど、そんなものを理由にして産むのも失礼である気がする。とりあえず、自分の立ち位置として寄付でもなんででも、自分のような思いをする人が一人でも減るような働きかけができればいい、と最近は考えていて、じゃっその奨学金をちゃんと返し切るのもそのうちの一つ。働いて、若い人たちが次に使うためのお金を、せっせと返していく。


ダラダラ書いたけれど、昼からワインを飲んだ酔っぱらいのたわごとです。ごきげんよう

夏期講座

今日が夏期講座最後の授業でした。夏期講座というかサマーセッションということで、普通10週間かけてやることを1ヶ月でやっちゃうという乱暴な講座です。月曜日と水曜日、1日の授業時間は3時間半。内容は専門のせまんてぃくす。いろいろな意味で緊張しっぱなしの1ヶ月でした。

夏が特殊なのは、時間編成だけでなくて仕事やら何やら抱える学生がいるということ。仕事があるから早く抜けたり、授業に来なかったり。授業のスライドは授業後にアップロードしたし、授業に出られずについてこられないのは自己責任だからその分はしっかり質問したりするように、といったものの、結局最後までぐだぐだにする学生もいたりとか。なるべく助けられるところは助けようと色々と頑張ったつもりではいました。

今日は最後の日だったので、軽くおさらいをして、みんないっぱい色々やったけど、でもまだまだ説明できないことばについてのあれこれがあるよ、とプレビューをして、早めに終わらせました。日本に帰ってやる仕事というと、まあ英語の先生で、もしかしたら専門のこういう授業をもつのは最後かもしれない、そうおもって最後に自分がこういう授業を教えることになったら入れたかった冗談も入れました。みんなわかってくれて笑ってくれてよかった。

この大学の学生達って優しいからよくやってくれることなんですけど、「じゃあこれでおしまい!質問はいつでもメールしてきてね」と終わらせたら拍手してくれました。なんというかこの授業の拍手はすごく私にとって特別でしたね。帰りのバスで改めていろいろ考えて、じーんとしてしまいました。

まず人が足りなかったのだろうし、さらに夏期講座(人数が少ない)とはいえ、私に講師としてこの大学のりんぐいすてぃくすの授業を任せてくれたということがまず驚きだったし、なんというか8年前に留学してはじめて学んだものを、今年こうして英語で学生に教えているということが本当になんでこんなことがおこったんだろう、という感じで今あらためて信じられない状態という変な感じです。同期のほうが適任ではあったはずだから、結局試験を通ったのがたまたまはやかったから頼まれたというだけなのだけれども、それでも一応わたしで大丈夫と思ってくれたからこそ頼んできたはずで、それが有り難いよりも申し訳なくて申し訳なくて。

指導教官(一応の夏期講座のスーパーバイザー)は 心配すんなーどーんとやれー! というかんじだったんですが、私にはプレッシャーでプレッシャーでしょうがなかったんだな、と終わってみてやっと自覚できました。きっとそれがこの1ヶ月、時差ボケを脱したあとも導入剤無しではなかなか眠れなかった理由の一つなのだろうな、とも(まあ夢で割当関数の話とかしてたくらいなので)

授業評価がどう出てくるかわからないけれど、でもこの経験が出来てよかった。ここで本当は「がんばったからここまでこれた」とか思えるといいんですが、自信の貯金箱には穴が開いているので上に書いたようなことばっかり、考えています。

しかし泣いても笑ってもあとはもう博論を書かないと…
アメリカ生活も、あと半年(ということになるはず)。